2013年1月28日月曜日

チーム毎に発表、そして次回の宿題

4チームの発表がありました。

今木・浦瀬・岡田チーム
岡田さんがお休みのこともあり、岡田さんの音声を録音して、その音声を使っての発表でした。今木君が上手、浦瀬さんが下手にいます。二人は同じ舞台上にいながら、それぞれ全く違ったシーンを演じています。今木君は、着替えに時間をかけている子ども。浦瀬さんは、お母さんからの呼びかけに対して何も反応しない引きこもりがちな子ども。岡田さんの音声が流れる中、二人の演技は続きます。最終的に、今木子どもがゲームセンターに向かうのですが、その際に浦瀬子どもも同時に動きだし、ゲームセンターに向かうものの、今木子どもが先にセンターについて、太鼓のゲームをしている。という作品です。基本的な要素は、「星座から見た地球」から来ています。 


緑川・YAKO・(栗脇)チーム
転校していく子どもの心象風景といったものを演じています。緑川、YAKO双方に子どもを演じながら、一緒に怪獣の絵を描くところから始まり、途中台詞のやり取りもあります。YAKOさんが、目に見えない友人といったものを演じているらしく、手紙の朗読あり、ドアの叩くSE音もあり、短い作品ながらも、しんみりとした気持ちになる作品に仕上がっていました。



てい・堀川・伝チーム
堀川が作品冒頭、観客を舞台に誘い込みます。「一緒にカエルを見に行こう」ということです。観客は、もちろん呼吸らメンバーなわけですから、名前を呼び捨てにされて、例えば私であれば「たっきー、カエル見に行こうや」といった具合です。結局、堀川に賛同するものがおらず、彼女は一人で伝の家に向かい、伝を誘い出そうとします。しかし、伝は着替えに夢中で(今木と同様のエピソードを演じています)、まったくカエル取りに行こうとしません。一方、舞台前面には、ていがカエルを始終演じています。たまに「ケロケロ」というだけで、カエルの恰好をして佇んでいるだけです。伝は着替えの途中、突然舞踏モードに入ったり、月光仮面になって、バイクを飛ばして、結局カエルを見に行くわけですが、カエルを捕まえようと池に近づいて、池にはまってしまう。という物語です。カエルを取りに行き、池にはまるのは、伝さんのリアル子どもエピソードだそうです。



伝さんが台本化したテキスト!

菊池・岩崎・関口チーム
舞台中央に机を置き、その上に岩崎、関口が座っています。二人は、ずっとシャボン玉飛ばしを楽しんでいます。冒頭、会場は真っ暗で、菊池が袖から懐中電灯を使って、会場を照らします。懐中電灯の明かりの筋によって、舞台にちりばめられたおはじきが見えます。基本的に物語らしい物語は無いのですが、岩崎が全くシャボン玉が出来ないのに対して、関口はシャボン玉が上手い設定です。また、途中で録音された音声が流されますが、それは、日記めいた感じで、日々の生活の出来事を、若いころから年老いたころまで、順を追って声に出しているといった録音音声です。


ウォーリー全体感想
・テキスト「星座から見た地球」が持っている、ノスタルジーな感じやテンポ感は全体に出ていて面白かった。
・子どもを演じるにあたって、浦瀬さんと伝さんが圧倒的に有利に思える。これはなぜだろうか。
・魅せる身体を考えていく必要があるだろう。
・テキストには、これといった物語があるわけではない。だからこそ工夫が必要。やもすれば、パフォーマンスが退屈になってしまう危険性を考慮するべき。俯瞰されたテキストだからこそ。
・菊池チーム、机に乗っていたが、足の揺れが良かった。それだけでも良かったとも思う。
・ていチーム、全員がそれぞれ、その人らしくやっていた。それが良い。バランス。


参加者感想
・大人のまま、子供演じる可能性もあるんではないか。
・もともとは、僕らも子供だった。しかし、今子供を演じる難しさを感じる。なぜなのか?!
・子どもの時のことはまるっきり忘れている。
・子どもを演じようとしている、とお客さんに思われたら、ひかれると思う。
・緑川チーム、再演希望。

このあたりで、「演じるとは何か?」といった話に入っていきます。
・遊びの延長としての演じる。
・アンサンブルの中での演じる。オーケストレーション。
・カエルをスタニスラフスキーで演じられるのか?
・箸休めとしてのカエル



次回マスト宿題
・小さい子供の頃の資料を持ってきてください。
・子どもを観察して、台本を起こしてください。
・小さいころの自分を再現してください。
・「子どもを演じるということ」という作文提出。

以下2点は、できる人はやってほしい。
・大人として子どもをやってください。
・ダンス/身体表現として子どもを演じてください。

t_i 所感
演じるうえで、ノイズを残すのか、切ってしまうのか(=ノーマライズ)。浦瀬さん、伝さんに子どもを演じるアドバンテージがあるとして、それはその二人がノイズにまみれているからなのか、容姿からくる特権なのか。ノイズなのだとすれば、他にもノイズがある人は多数いる。演者自身がノイズに自覚的でない場合、観察者はそれを発見する楽しみがある。演者自身が意図的に消そうとするにも関わらず出てきてしまうノイズは、望まれないノイズとして、舞台上に現れる。演者の理想としている立ち姿と、その望まれないノイズとが不和を起こすだろうから、舞台は見ていられなくなるのだろうか。
浦瀬さんが、子どもの頃の記憶が特にないといったことが極めて印象的。演じ手にとって、忘れているという状態をも内包しての演技ということを考えていけるかもしれない。

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