2013年7月4日木曜日

【2013/06/26】306号室での最後の稽古

思えば26日は、市民会館306号室での最後の稽古でした。

アクターズラボの公演クラスでは参加者に主体的に関わってもらうことをひとつの方針としているので、呼吸らもその例に漏れず、小道具や衣装の調達・管理、web制作などの仕事をメンバーで分担しています。
ラボ高槻の場合、稽古は高槻現代劇場敷地内の市民会館305号室・市民会館306号室・展示室のいずれかで行なわれていますが、小道具が多い上に舞台装置としてロープを使っていた呼吸らは稽古の始めと終わりにメンバーでわっせわっせと準備・片付けに走り回ってきました(お疲れさまでした)。

306号室はもうひとつの公演クラス「劇団305号室」も別の曜日に稽古場として使っているので僕としては「高槻ラボといえば306号室」くらいの感覚なわけですが、それでも稽古がスタートすると同じ場所にいるという意識がすっかりなくなります。それは単純に舞台装置のせいなのか、ひとが変わるから場所も変わるのか、あるいはどちらも関係しているのか、理由はさておき場所の変容というのは興味深い現象だなあとつくづく思います。逆に変容するからどこでもいいかといえば、やっぱりその場所そのものにも愛着は生まれたりするわけで。

306号室は取り立てて便利な空間というわけではありません。舞台を横切るロープに洗濯物が干してあるという今回の美術プランを毎回仕込むのは結構工夫が要りましたし、事故になりかけたこともありましたし、稽古の動画を撮影するにもアクティングエリアが近くて大変でした。でもそうした不便さや大変だった記憶も含めて、306号室は呼吸らの稽古場だったんだよなあと思うとちょっと感慨深いものがありますが、勿論この頃の呼吸らにはそんな感傷にひたる余裕などなく、いつも通りギリギリまで稽古をして、いつも通りギリギリまで小道具の片付けをして、いつも通りあわてて建物を出たのでした。たしか。

第2期のウォーリークラスがどうなるのかはまだ分かりませんが、306号室は今後少なくとも劇団305号室の稽古場ではあり続けますし、また別の誰かの稽古場として創造の現場となっていくことでしょう。そのことに呼吸らや『星座から見た地球』は直接関係ないのかもしれないし、記録にすら残らないのかもしれませんが、場所の記憶として積み重ねられていくことに意味がないとも思えずにいます。


市民会館306号室には第1期呼吸らもいました。
そこで『星座から見た地球』という演劇作品をつくりました。



「すべてが足跡のように、消えてしまうわけではないのだ。」

【2013/06/25】創造と、何かを共有するということ

どうも森です。正直に書きます。
ブログを更新できずにいるうちに本番が終わってしまいました。

本番の日付のブログでまたあらためて御礼申し上げたいと思いますが、ご来場くださった皆さま本当にありがとうございました。
おかげさまでとても達成感のある上演となりました。



さて、それでは稽古を回想しつつブログをしたためていきたいと思います。



これまでのブログでもお分かりいただけるように、呼吸らの稽古場では「ケミカルダンス」「ドロップ読み」を筆頭に意味不明な言葉が飛び交っています。

ただ、これは呼吸らに限ったことではなく創造の現場とりわけ集団創造の現場ではよくあること。
最近は教育現場で演劇が活用される機会が増えていて、その際によく「コミュニケーション能力」という言葉で効果が語られたりしていますが、もともとcommunicationはラテン語のcommunis「共有のものにする」が語源で、いうまでもなく親戚にはcommunityがいます。
うんちくはさておき何の話がしたいかというと、稽古場にそこでしか通じない言葉が飛び交っているということは、そこにいる人びとが作品創造を通じて言葉にされた何らかの「共有のもの」を獲得して一種の共同体となっているということに他ならないのではないか、という話をしたいわけです。

もう少し平たく日本語らしい言い方をすれば、呼吸らは「ケミカルダンス」とか「ドロップ読み」とか言いながら何かを共有しているわけですが、一体何を共有しているんでしょうか。
それはまあ、例えば「ケミカルダンス」なら「あるダンスの振付を共有している」といってしまえば勿論それはそうなんですが、でもやっぱりそれだけではない気がする。なぜなら「ケミカルダンス」って普通に考えたら意味の分からない言葉だから。意味が分からないのにそのままになっているのは、表面の字面では分からないことがその言葉を使っている人たちのあいだでは共有されているはずだから。

とはいえ呼吸らが一種のcommunityとして共有しているものの正体を言い表すのは決して簡単なことではないでしょう。むしろ不可能で、どこか野暮で、そもそもひとつではなく、際限なく増え続けている気もします。

そのような営みは、そのまま『星座から見た地球』という舞台の内容にも当てはまるように思えます。登場人物たちについて観客のみなさんがはっきりと合理的に了解できることはあまり多くないかもしれませんが、ぼんやりと経験的に共有できることは少なからず散りばめられているはずです。