2013年3月25日月曜日

【2013/3/18】C.T.T.本番が終わりました

C.T.T.本番が終わりました。
ご来場くださったみなさま、ありがとうございました。
ありがとうございました。
このブログの読者のみなさんはご存知のように、今回のC.T.T.で呼吸らは『子供を演じることのいくつかの考察』という作品(というより、“試”作品といったほうが正しいかも?)を上演しました。

お客さんの反応は実に賛否両論。「よくわからなかった」「ついていけなかった」という方もいれば、「出演者がエネルギッシュで楽しそうだった」「いろんなことを考えさせられた」という方もいたようでした。上演後の合評会でもさまざまなご意見ご感想をいただき、本当にありがとうございました。

今回の公演は『子供を演じることのいくつかの考察』というタイトルにもあらわれているように、「演じる」ということについての自己言及的・自己省察的な上演となりました。つまり、今回は演劇を上演することによって演劇について(なかでも特に「演じる」ということについて)考えてみた/考えてもらった、というわけです。
劇中、「子供を演じるということ」について考える浦瀬さん
そんな上演でしたから、ほかならぬ僕自身も本番が終わってから随分いろんなことを考えさせられています(もともと考え込むと止まらないタイプなので、なかなか大変なことになっています)。ただ、これはこれで上演への応答として間違っていないだろうという思いもあったりしているので、今回のブログは上演を終えて僕が書き留めたメモをちょっと直して転載させてもらおうと思います。
いってみれば「『子供を演じることのいくつかの考察』のいくつかの考察」です。

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演劇で「演じる」というのは、多くの場合、物語の登場人物として行動することを指す。なぜなら多くの場合、観客は「物語を楽しむ」ことを至極まっとうな楽しみ方だと思って演劇を観る。だから物語の世界をより「本当のこと」らしくするために俳優は「自分は登場人物とは別の人間である」ということを観客に感じさせないようにする。そしてそれが成功していると、俳優はその登場人物を「上手く演じた」と称賛されたりする。

つまり、多くの場合、観客は演劇という方法で表現された物語を楽しんでいる。だから俳優が「演じる」ということを観客に感じさせなければ感じさせないほど、観客にとっては好都合だということになる。

ところが『子供を演じることのいくつかの考察』には「本当のこと」らしくするべき物語がほとんどない。これは「物語を楽しむ」ことを至極まっとうな楽しみ方だと思っている観客にとっては、はなはだ困ったことだ。舞台にはただただ子供を演じようとする俳優のすがたとそのガイドラインとなる断片的なテキストしかない。気分的にはゴールのないサッカーやバスケットの試合を見るのと近いかもしれない。

じゃあ呼吸らはどうしてこんな意地悪で不親切な上演をしたのか。もっとシンプルに面白い物語を演劇でやったらよかったじゃないか――。そういう意見があったとして、それはそれで正論だと思う。でもちょっと乱暴な気もする。大切なのは勝ち負けだからサッカーでもバスケットでも同じだというのはあんまりだし、大切なのは物語だから演劇でもテレビドラマでも同じだというのもあんまりだ。

だとしたら、演劇という方法で物語を表現することはいったい何がおもしろいのか。そもそも俳優が別の誰かを「演じる」ということはいったいどういうことなのか。
そんな思いで呼吸らとウォーリーさんは物語をいったん取り外し、演劇という方法だけを舞台上に投げ出してみることにしたのだろうし、その際にあえて「演じる」ということを観客に感じさせざるをえない「子供」という題材を選んだのだろう。
物語を取り外して、ただただ「子供」を演じています
「子供」という題材が「演じる」ということを観客により感じさせるのはなぜかといえば、大人の俳優がどんなに子供を「上手く演じた」ところで、観客がその俳優を本物の子供だと思うことはまずないからだ。本物の子供と大人である俳優には少なくとも見た目のギャップがはてしなく付きまとう。それでも観客や俳優自身が「子供を演じている」といえるのだとしたら、それはつまり、「演じる」ということと「別の誰かになる」ということは似ているようで全然ちがうことだからなんじゃないだろうか。

逆から考えてみれば、大人である俳優と本物の子供とのギャップ――いいかえれば、この埋めがたい「あいだ」こそが「演じる」ということを成り立たせているのではないかという気もする。
たとえば、俳優・緑川岳良はかつて児童会選挙に立候補した少年・緑川岳良を演じる。演じることによって緑川岳良というひとつの存在に「あいだ」が生まれ、ひとつの身体のまま俳優・緑川岳良と少年・緑川岳良というふたつの存在に分かれる。そのふたつの存在は観客の想像力のなかで重なったり近づいたり離れたりする。もちろん、ほかの演技者が子供を演じるときにも同じことが起きている。だからもしかしたら『子供を演じることのいくつかの考察』(あるいは劇場という場所)は、その「あいだ」をなるべくふくらませて、みんなで見つめようとした場だったということができるかもしれない。

先の「演劇という方法で物語を表現することはいったい何がおもしろいのか」という問題も、やっぱりこの「あいだ」が結構大事なところを握っている気がする。その物語がどんな人たちによってどんなふうに演劇化されるかということは、どんなふうにその物語との「あいだ」をつくるかというふうに言い換えられるように思われる。

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まあ「なんのこっちゃ」という話でしたが、今回は本公演のための試演ですし、何か次につながれば……ということで掲載させていただきました。

とはいえ、こんなことを書いて「今回観られなかったから本公演を観てもついていけないにちがいない」などと思われてしまっては困るので、ちょっとでもそんなふうに感じた方はぜひ本番の記録映像をご覧ください。

3月17日の回 : 前半 / 後半
3月18日の回 : 前半 / 後半


今回のC.T.T.公演から6月の本公演がどんなふうにつくられていくのか、おそらくウォーリーさんも含めてまだ誰にも分かりません。

まだまだ先の読めない呼吸らの展開に今後もご注目ください!




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